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#1/手を握った


私の名前は戸嶋孝一郎。通称、マスター。45歳の時に大手商社部長職を辞し、その後10年間、世界各国でバー、カフェの職人修業。現在60歳。この空港の一番隅っこで、「エアポート・カフェ・ハグ」という小さな軽食喫茶店を営む。『HUG』と書いてハグ。スカンジナビア語が語源で、愛情をもって両腕で抱きしめる、という意味だ。
「おかえり」「いってらっしゃい」「ありがとう」「さようなら」「元気で」「がんばれ」「うれしい」「愛してる」・・・そんな心の言葉の代わりに、人は人を抱き寄せる。この店には、いや、この空港には、そんなハグの心模様というのだろうか、それが、ちょっとした具合でほんの少しこぼれる事がある。これは私が、空港という名の舞台で見た小さな抱擁の1コマ。それぞれの人がギュッと抱き寄せあった腕の中から零れた、ひとつひとつのひとりひとりのなにげない物語を、プレーゴ、シル・ブ・プレ。

20歳そこそこだろうか。短めの光沢のあるブルーのTシャツにプラダの小さなリュックを背負い、髪を明るすぎるブラウンに染めた若い女性が『HUG』に入ってきた。ローライズの白いパンツ。手には大きめの篭を下げている。彼女はカウンターの端からふたつ目の椅子に座り、篭を端の席に置いた。中には産着にくるまれた赤ちゃんが小さくバンザイをするカタチで眠っていた。
「アイスコーヒー」 
私は篭の中の赤ちゃんに微笑みを投げ、その視線を彼女に移したが、彼女は携帯電話の小さな液晶画面を見つめながらボタンを操作していた。私はアイスコーヒーを煎れ、彼女の前に置き、値段を告げた。彼女は背中のリュックに器用に手を回し、財布の中から小銭を出し、カウンターに置くと同時に電話で話し始めた。

「あ、あたし、メグ。今日は会いに行くよ。今? 今は空港だよ。飛行機に乗るところ。え、でも、そんなこと言ったって」
彼女は搭乗チケットをポケットから取り出して数字を確認した。
「福岡には8時30分には着く。え? 会社には電話しないって約束したけど、でもあなたの携帯がつながらなくなっちゃったんじゃない。今更、逃げるなんて許さないからね。とにかく電話して。番号、忘れた?090の********。もう一度、言うわ。090の********。わかった?絶対、来て。迎えに来ないと・・・。え、あ、赤ちゃん。いないわよ。あ、ちょっと待って・・・」 
彼女は一瞬、私の方を窺ってから席を立ち、穏やかではなさそうな電話の続きをするために店の外に出た。カウンターに置いたアイスコーヒーの氷が溶け、グラスの中で涼しい音を立てた。同時に、篭の中の赤ちゃんが小さな欠伸をし、手をプルッと震わせた。

私はガラス張りの店内から彼女の様子が気になって見つめていた。すぐに1組のカップルと3人のビジネススーツのグループが店に入ってきた。それぞれのオーダーに対応しているうちに彼女の姿を見失った。 
「まだ生まれたばっかって感じだね」 
カップルがカウンターの端にいる篭の中の赤ちゃんを覗き込んで話しかけてきた。 
「ほんと、ちっちゃい。この子、マスターの子供ですか?」 
「いえ。外で若いお母さんが電話してるんですよ」 
私が応えると、ビジネススーツのグループが言った。
「今すれ違った子だ。泣いてたよな。携帯電話に怒鳴って。可愛くても怖いね、女は」
「ああ、ヘソ出しルックの子ね。でも、子供生んだような体型じゃなかったけど」
「置いてっちゃったんじゃないの。搭乗口の方に走ってったもんな」
「やっばい。捨て子? 警備とかに連絡した方がいいんじゃないか」 
お客さん達が私と赤ちゃんを交互に見た。カップルの女性が、店の外に出て周りを見回した。警備担当者を探そうとしていたのか、赤ちゃんの母親を探そうとしていたか。ドアで立ち止まり、店の中の成り行きをうかがっていた。

私は彼女が電話口で言っていた自分の携帯番号を必死で思い出した。まだ耳の奥に彼女の声が残っていた。私は自分の携帯電話を取りだした。その様子を見て、お客さん達の肩の緊張がほどけ、カップルの女性も席につき、それぞれの飲み物を口に運んだ。しかしそれぞれが、耳だけは明らかに私の電話に集中していた。
「ああ。もしもし、私です。『エアポート・カフェ・ハグ』の戸嶋です。私の店に赤ちゃんが今いるんですが。お母さんがちょっと迷子になってしまったようなんです。いえいえ、まさか。捨てるなんてとんでもない。世界中がすべて敵にまわっても、母親だけは我が子の味方ですよ。誇りっていうんですか、男にはプライドはひとつしかありませんけど、女性は、女のプライドと母親のプライドの、ふたつがありますから。男や女のプライドと違って、母親のプライドはそう簡単な覚悟じゃないはずですよ、何があってもね。待ってますよ、赤ちゃん。ちょっとお腹を空かせてるみたいですね」

私は目を覚まして泣き始めた赤ちゃんの声に、携帯電話を近づけた。電話を切ると、店のお客さん達は警備担当者に電話したと思ったのだろう。もう何も言わなかった。
私は篭の中の赤ちゃんの足元に置かれていた包みの中から、哺乳瓶とミルクの缶を取り出し、赤ちゃんのミルクを作った。作りながら、オムツを替えた。


プライドとは、自分が自分を好きでいられる理由だ。その理由を汚すのは、他人の言葉や態度や心ではない。その理由を永遠に抱きしめる覚悟や心の腕の強さがなければ、守れはしない。『単なる思い過ごし』をプライドと叫ぶ男と女がこの頃、増えたが・・・。
18:45発福岡行き最終搭乗案内のアナウンスが流れた。空港内の人の流れが慌ただしく搭乗口に向かう。店の客も、赤ちゃんに一瞥を投げた後、人並みに紛れた。

私は赤ちゃんを抱いた。赤ちゃんは夢中でミルクを飲んだ。飲み終えた後、ゲップをさせてやると、私の腕の中で大きな目と小さな手を動かして、私を見つめた。
空港内の慌ただしさが止み、空港の出発案内板から出発便の表示が消えた。私は赤ちゃんを抱いて滑走路が見える場所に歩いた。空港内のガラス越しに、福岡へ離陸する飛行機が茜色に染まりつつある空に斜めに吸い込まれていくのが見えた。
さあ、どうする。何かを掴もうと伸ばされた赤ちゃんの手には、私のひとさし指が柔らかく握られていた。空はゆるく赤い。携帯電話の呼び出し音が鳴った。ひとさし指を小さな手から静かに抜いて、尻ポケットから携帯電話を取りだし、耳に当てた。
「・・・もしもし」
「まさか飛行機の中じゃないよね」
「後ろ」
彼女だった。携帯電話を耳に当て、数メートル後ろでこちらを見つめていた。私は中空を彷徨う赤ちゃんの手に指で軽くハイタッチした後、『HUG』に彼女を招き入れた。
さしむかいにカウンターの椅子に座り、彼女は泣きはらした目と涙でグショグショになった顔のまま、私に事の次第を説明しようとした。私はその言葉を無視し、赤ちゃんを彼女の腕に返し、カウンターの中に入り、温かいカプチーノを煎れた。ミルクの泡を注ぎ、最後にスッと引く。泡はハートのマークを描いた。
「赤ちゃんには、本物のミルクを飲ましてあげるといい。どうだい」

私は店の内側にブラインドを下ろし、閉店の看板をドアに掛け、滑走路の向こうに広がる夕日を見るために歩いた。濃い茜色と群青が混ざり合う空が、眩しく目に沁みた。

店の中では、赤ちゃんが乳を頬張りながら彼女の手を小さな手でギュッと握っていた。その指の柔らかい圧力は彼女の胸の奥の何かをも握っていた。甘く痛く、強く。
次回をお楽しみに・・・

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