節約レシピやバイキングなど「なっとくおとく」TOP

#2 / エスプレッソ


私の名前は戸嶋孝一郎。通称、マスター。45歳の時に大手商社部長職を辞し、その後10年間、世界各国でバー、カフェの職人修業。現在60歳。この空港の一番隅っこで、「エアポート・カフェ・ハグ」という小さな軽食喫茶店を営む。『HUG』と書いてハグ。スカンジナビア語が語源で、愛情をもって両腕で抱きしめる、という意味だ。
「おかえり」「いってらっしゃい」「ありがとう」「さようなら」「元気で」「がんばれ」「うれしい」「愛してる」・・・そんな心の言葉の代わりに、人は人を抱き寄せる。この店には、いや、この空港には、そんなハグの心模様というのだろうか、それが、ちょっとした具合でほんの少しこぼれる事がある。これは私が、空港という名の舞台で見た小さな抱擁の1コマ。それぞれの人がギュッと抱き寄せあった腕の中から零れた、ひとつひとつのひとりひとりのなにげない物語を、プレーゴ、シル・ブ・プレ。

エスプレッソの表面に細密な泡(クレマ)が浮いている。30ccほどの抽出液の表面をその微細な泡が覆い隠していた。男は肉厚の小さなカップをつまみ、鼻先に近づけて目を閉じて軽く深呼吸してから一口すすった。
「やっばり、こんなふうにはできないんだよな。マスターの作り方をいつも見てるんだけど、わかんないんだよね」
「慣れですよ、慣れ」

その客と、私が交す金曜日の朝9:00のお決まりの儀式のような会話だ。3ヶ月ほど毎週、金曜日の同じ時刻に来るエスプレッソ好きの男性。歳の頃は4050歳といったところだろう。エスプレッソを2杯と水1杯。搭乗案内のアナウンスが流れるまでの約10分間を、ここ「エアポート・カフェ・ハグ」で過ごすのだった。

「今日もお仕事ですか」
いつもはスーツにネクタイをしている男が、初めて麻のジャケットにコットンパンツというラフな服装だった。
「いや。今日はデートなんですよ」
「おやすくないですね」
「いやいや。実は、娘と、なんですけどね。10歳、小学校5年生。半年前に突然、娘がいるってわかって・・・。ま、いろいろあるんですよ」

男は1杯目のエスプレッソを2口目で飲み干して、おかわりのオーダーをした。
話したくない内容だが、誰かに話したい。そんなニュアンスを含ませて男は少し笑いながら水を飲んだ。ジャケットの胸ポケットから搭乗券を出す。「1A」という文字にボールペンで赤丸が付けられているのが見えた。9時半出発便の搭乗チケットだった。

「いつもスーパーシートなんですか」

私は男が話そうとしている内容から少し距離をとるつもりで言いながら、コーヒー豆をパヴォーニのレバーピストン式のものにセットし、圧力をかけた。抽出音が比較的静かで故障も少ない。私は業務用のマシンではなく、この家庭用を使っていた。男も同じマシンを持っていて、何度か店の豆をわけた事もある。

「この何年か、毎週のように福岡行きの飛行機に乗ってるけど、スーパーシートは初めてなんですよね。やりくりってヤツ。セコイですよね」
「そんな・・。知恵ってもんでしょう」
2杯目のエスプレッソに男は砂糖を1杯乗せた。泡の層の上に砂糖が一瞬積もった後、じわりとコーヒーが浸みて、ゆっくりと泡の層の中に沈んでいく。それを眺めてから男は3口でエスプレッソを飲み干す。

出張費は決まってるから往復の交通費や宿泊費を節約して臨時収入とする。サラリーマンの特権だったが昨今ではその知恵も許されなくなっているようだ。

「マスター。今度、おいしいカプチーノの作り方、伝授してくださいよ」
慣れですよ、というのを止めて、もちろんですよ、と私は言った。すると男は自分の名刺を渡した。藤沢という男の名前を初めて知った。中堅の空調機器メーカーの名前が印刷され、上海支社と書かれていた。

「新しい名刺。来月から中国。しばらく帰れないかな」
9:40発の福岡行き最終搭乗アナウンスが流れ、藤沢氏の背中が小さくなっていった。私はカウンターに並んだ2つのデミタス・カップを片づけ、自分のためにエスプレッソを抽出した。泡の色が黄金色ないしは赤茶色の時がもっともうまいエスプレッソなのだが、抽出時間が早すぎたのだろうか、白っぽい泡がエスプレッソの表面に浮かんだ。

「慣れた頃が一番、危ない時なんだよな」
私は男の人生に何があったのかを想像していた自分を少し恥じ、その独り言を濃く刺激のある液体とともに飲み込んだ。

10日ほど経った昼近く。藤沢氏が店にやってきた。黒いワンピースを着た女の子がカウンターの席に座る。
「カプチーノください」
女の子が言った。
「今、福岡から戻りました。娘です。あ、私にはいつもの・・・」
藤沢氏は黒いネクタイをしていた。藤沢親子は穏やかに笑っている。私はその服の色に少しとまどいを覚えながら、まずカプチーノを作った。ミルクをゆっくり注ぎ、泡とミルクで小さな漣のようなハート・マークを描いてみせた。女の子は目を輝かせその模様を見つめ、その後、微笑む父の顔を見た。藤沢氏は笑顔で頷き、スプーン2杯の砂糖をその上に乗せた。娘はその様子を肩をすぼめながら見つめていた。

藤沢氏は10年前、福岡の支社でアルバイトとして働いていた若い女性と短い恋に堕ちた。当時、彼が35歳。女性は19歳。若い頃に両親を亡くし祖母と暮らしていた。慎ましく強く健気な娘だったが、数ヶ月で彼は東京の本社勤務となり、短い恋は終わった。娘の事を男は忘れ、娘は何も言わず待ち続けた。半年後、上司の娘と結婚した。男癖の悪い妻だったが、それと引き換えのように男は出世した。その後、男が本社の重役として福岡支社に出張した半年前、10年前の、あの恋の顛末を知る事になった。

「すぐにでも彼女と娘と暮らしたかったんですが、遅かった。癌だったんですよ、彼女。3日前でした」
男は娘の肩を軽く抱き寄せながら微笑した。妻とは、その男癖を理由に離婚したという。興信所の報告書が決め手だった。表向きには円満な協議離婚となっていたが、上海への左遷という代償は払った。

「おいしいカプチーノだろう。パパもこんなにうまくできたらいいのにな」
藤沢氏が上唇にカプチーノの泡をつけた娘の唇を撫でると、娘は父の目を見つめた。
「パパのカプチーノの方がおいしい。絶対、おいしいもん」
父は、娘の肩を静かに抱いた。父の前に置かれたエスプレッソの泡が少しずつ消えて、濃く柔らかなコーヒーの薫りが漂い続けた。

次回をお楽しみに・・・

作者プロフィール
バックナンバー>>
節約レシピやバイキングなど「なっとくおとく」