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#3 / 月を見に森へ


私の名前は戸嶋孝一郎。通称、マスター。45歳の時に大手商社部長職を辞し、その後10年間、世界各国でバー、カフェの職人修業。現在60歳。この空港の一番隅っこで、「エアポート・カフェ・ハグ」という小さな軽食喫茶店を営む。『HUG』と書いてハグ。スカンジナビア語が語源で、愛情をもって両腕で抱きしめる、という意味だ。
「おかえり」「いってらっしゃい」「ありがとう」「さようなら」「元気で」「がんばれ」「うれしい」「愛してる」・・・そんな心の言葉の代わりに、人は人を抱き寄せる。この店には、いや、この空港には、そんなハグの心模様というのだろうか、それが、ちょっとした具合でほんの少しこぼれる事がある。これは私が、空港という名の舞台で見た小さな抱擁の1コマ。それぞれの人がギュッと抱き寄せあった腕の中から零れた、ひとつひとつのひとりひとりのなにげない物語を、プレーゴ、シル・ブ・プレ。

冷夏の夏の終わりの、処暑を過ぎた蒸し暑いある日の午後。ひとりの女性が『HUG』に入ってきた。黒いワンピースは夏用の喪服だった。
「エスプレッソ」
カウンターに座り、顔をあげた時、私と視線が合った。その声が私の遠い記憶の糸を弾く。長い黒髪を後ろでひとつに結んだ正統派美人だ。どこかで会っているが、どこで会ったのか記憶の糸が絡まっている。彼女は私の困惑した表情を数秒見つめると、軽く息を飲み、煌めく笑顔で満たした。
「孝一郎パパ?」
私は名前を呼ばれて更に困惑した。
「ほら、オーストラリアで。パースのホテルで!」

ホテル、パパ、という言葉に反応したスーツ姿のお客さんが振り向き、私と彼女を交互に見てから背を向け珈琲をすすった。もう、耳はこちらの会話にくぎ付けに違いない。
「ああ」

私は不覚にも情けない声を漏らしつつ、その美人を思い出した。山内佐和子。佐和子君と私は呼んでいた。6年ほど前、私がパースのホテルで1年ほど修業していた時に、そのホテルのコンシェルジェ見習いとして働いていた。私は、娘と同じ歳だという話をし、彼女は、高校生の時に亡くなった父親に似ている、と言って私をパパと呼んだ。彼女の家は鹿児島で小さな料亭旅館をしていたが、父親を亡くした後、母親は子連れの板前さんと再婚した。彼女は旅館の後を継ぐ口実でオーストラリアの観光学科がある大学に留学した。どうも新しい父親と2ツ年下の男の子に馴染めなかったらしい。

「なつかしいわ。こんな所で会うなんて奇遇ですね」
「今年からここで喫茶店のようなバーのような店をやってるんだよ。佐和子君は?」
彼女は28歳になっていた。3年ほど前に帰国し、今は、那須の瀟洒なホテルで仕事をしているという。実家は2ツ下の義弟が後を継ぐ事になっていて、帰りづらくなっていたところ昨日、母が突然亡くなり、今、実家の鹿児島に葬式に帰るところだという。

「故郷って何なんでしょうね」
彼女はひととおり話し終えると、そう呟いた。

エスプレッソを飲み干し、長い睫毛を何度か上下させると、瞳が微かに滲んだ。背中を向けていた背広の客が彼女の独り言を潮時に席を立ち、店を出た。何かを言おうとしていた私に、彼女は自分の名刺を差し出した。
「今度、遊びにいらしてくださいね」
名刺を受け取ると、鹿児島行きの最終搭乗案内のアナウンスが流れた。
「気をつけて」
私は他に気の利いた言葉が言えず、彼女を見送った。

そして2ヶ月後。秋も深くなった頃、店を時々、手伝いに来ている私の娘が言った。
「そうそう。1ヶ月位前に、お父さんを尋ねてきた女の人がいたわ」
店にいた数人の喪服の客が帰った後だった。佐和子君の事だった。
「8月の終わりよ。すっごい美人。佳代さんですねって。私、びっくりしちゃった。いきなり喪服の美人が私の名前、知ってるんだもの。オーストラリアでお世話になったって言ってたけど、妙なお世話なんかしてないでしょうね」
「・・・何ですぐ言わないかな。で、何か言ってたか?」
「言ってた。子供の頃、私が名前の事でいじめられてた事、知ってたよ。高校から海外に留学したのも日本にいて名前でいじめられるのが嫌だったからだって、その人に言ったでしょ。何てったって、トシマカヨ(年増かよ!)だもんね」

この話を聞いた1週間後。『HUG』は娘に任せて私は遅い夏休みをとることにした。

那須塩原の駅を降り、シャトルバスで30分。そこは深い森だった。35,000坪の敷地には渓流が流れ、森の木々を渡る風と、テレンス・コンラン卿の手になる宿泊施設があった。樹木に差し込む光や空気そのものまで、見えない羽で撫で上げたような静謐が、その森全体を包んでいた。
私と2組のカップルを乗せたシャトルバスがレセプションに着いた。エントランスのドアを開いて招き入れてくれたのは、彼女だった。
丁寧でさりげない説明の後、それぞれの部屋に専任スタッフが案内する。佐和子君が私の世話をしてくれた。森の径を抜け、本館とは違うモダンな離れが点在する一角が、東館と呼ばれる宿泊施設だった。ひとつの部屋のドアを開け、中に入った。
「本当に来てくださったんですね。予約名簿を見た時はびっくりしました」
彼女は夏に『HUG』に入ってきた時の最初の笑顔を見せながら、ライムストーンの床を歩き、ひととおり部屋の説明をし、これからどうなさいますか、と私を見つめた。
「今日あたり、満月だったかな。きれいだろうね、月も」
軽く胸の奥に甘い痛みが走った。満月の日は魚がよく釣れるんだよ渓流で釣りができるんだってねここは、と私の口は訳の分からない事を早口で言っていた。
「明日ですね、満月は」
彼女はそう言って釣り竿を用意しますと告げて部屋を出ていった。
私は着替えて彼女を待った。釣り用のブーツとベスト、毛針のセット、竿。一式を用意して彼女はまもなく戻った。
秋の木漏れ日の森を歩き、渓流にふたりで歩いた。夕食後に散歩しようと約束をして私はひとりで渓流の岸部に立った。澄んだ川の流れの表面に、傾いた太陽の光の糸が複雑な模様を作りながら揺れ続ける。竿を振る。釣り糸がゆるい放物線を描き空を舞う。

森の空気に包まれながら釣果のないまま数時間を過ごした後、地階のスパを楽しみ、1階レストランでゆっくり食事をとった。
「ほら、14番目の月。散歩の約束ですよ。忘れちゃいました?」
レストランから出て森の径へ向かう途中、彼女が寄り添ってきた。森を抜けて5分ほどの場所に池がある。そのほとりの草の上に座り、水に映る、満月に少し足りない月を眺めた。草の椅子に座りながら、彼女のその後の6年の話を聞いた。月は池の表面でゆるやかに揺れた。彼女の肩を抱いたのは、秋の夜風が少し寒かったせいだ。

そういえば、このホテルのパンフレットにはこんな言葉が記されている。
『わたしたちは森の生活と三つの椅子を用意しました。一つは、孤独のため。一つは、友情のため。一つは、社交のため』と。

 

次回をお楽しみに・・・

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