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#4 / ありがとうのレシピ


私の名前は戸嶋孝一郎。通称、マスター。45歳の時に大手商社部長職を辞し、その後10年間、世界各国でバー、カフェの職人修業。現在60歳。この空港の一番隅っこで、「エアポート・カフェ・ハグ」という小さな軽食喫茶店を営む。『HUG』と書いてハグ。スカンジナビア語が語源で、愛情をもって両腕で抱きしめる、という意味だ。
「おかえり」「いってらっしゃい」「ありがとう」「さようなら」「元気で」「がんばれ」「うれしい」「愛してる」・・・そんな心の言葉の代わりに、人は人を抱き寄せる。この店には、いや、この空港には、そんなハグの心模様というのだろうか、それが、ちょっとした具合でほんの少しこぼれる事がある。これは私が、空港という名の舞台で見た小さな抱擁の1コマ。それぞれの人がギュッと抱き寄せあった腕の中から零れた、ひとつひとつのひとりひとりのなにげない物語を、プレーゴ、シル・ブ・プレ。

『今週は会えないな。来週はきっと大丈夫』
『そうね。わかった。・・・泊まれないよね』
『・・・ごめん』
『冗談だってば。あやまらないで。ちょっと言ってみたくなっただけ。そんなに弱いわけないじゃん。ちょっとここんとこ、仕事が忙しくって。甘えたフリをしてみたのさ』
『あ、ああ。東京支社は人使いが荒いからな。ハハハ』
『そうそう。それでね・・・・』

10分ほど話した。携帯を切ると由里子の表情は舞台の幕が降りるように、笑顔から無表情に変わり、大きな瞳から涙がこぼれた。カシミアのコートの袖で涙を拭いた。鼻水を2、3度すするとタクシーを止めた。
「羽田」
運転手に行き先を告げ、由里子は鼻水と涙で少しテカッた袖を指先で拭い落とした。30分後、由里子はHUGのカウンターに座っていた。

「寒くなりましたね」
再び笑顔になった由里子は孝一郎に言った。
「珈琲ください。ほんとは、熱燗をキュッなんてやりたい気分なんですけど」
「ヨーロッパの熱燗は、いかがですか。ほんのり甘くて、身体の芯からぽかぽかしますよ。風邪をひきそうな時はこれが一番」
由里子は鼻水の名残を見つけられたと思い、指先で鼻をこすり、満面の笑顔を向けた。
「わかります?風邪気味なんですよ。そのヨーロッパの熱燗ください」
「由里子さんの元気な笑顔がこのところ拝見できなくて寂しかったんですよ。お忙しかったんですか、彼も」
孝一郎は小さな片手鍋にボジョレー・ヌーボーを注ぎながら話した。福岡に住む遠距離恋愛の彼に会う日は、いつもHUGに来ていた。HUGにくる日は、彼に会う日だった。しかしこの半年ほどは、泊まりで会う事はほとんどなくなっていた。
「そうなの。久しぶりに会うんですよ」
「そうですか。じゃ、風邪がうつらないようにコレを飲んで治しちゃってください」
孝一郎は由里子の前に濃く薫りたつホットワインを置いた。
「冬のヨーロッパのクリスマス市には、大抵こうしたホットワインの屋台が出てるんですよ。国や地域によって入れるスパイスやフルーツに違いはありますけど、みんな心まで暖まるのは同じ。それに、安いワインの方がおいしいんですよ」
「私の家にも同じボジョレーの飲み残しがありますよ。料理に使うくらいしかないかなって思ってたけど・・・。これ、おいしい。作り方、教えてください」
「もちろんです。彼にも作ってあげてください」
孝一郎は、由里子の瞳の周りの赤みに気づいた。鼻水は涙の名残りか。
「会えない時間は恋の薬ですが、何かの具合で毒になったりもします。けど、コレはいつでも薬。冷えた身体の芯がうんと暖まる」
「心が冷えた時も?」
由里子は笑顔を止め小さく言った。孝一郎は、もう目を合わせなかった。その言葉が聞こえないふりをして、レシピをメモに書きはじめた。
由里子は芯から暖まるホットワインを飲みながら、孝一郎のレシピの文字を追った。

{ナベにグラニュー糖と少量の水を入れて火にかける。グラニュー糖をカラメル状に溶かし、焦げ付く寸前にワインを加える。溶けたグラニュー糖が一気に固まる。固まったグラニュー糖を溶かしながら加熱する。クローブを1杯につき半分くらい。シナモンやナツメグ、オレンジの皮、レモン汁を入れる。沸騰させないように加熱してできあがり。グラニュー糖をカラメル状にするのが面倒なら、蜂蜜にワインを注いでもOK。スパイスやフルーツはお好みで}

そこまで書き、孝一郎は由里子にメモを渡した。
「21:30。福岡からの便の到着アナウンスが流れた。
「着いたみたい。それじゃ、また。マスター。レシピ、ありがと」

笑顔で手を振ると、由里子は到着ロビーには向かわずタクシー乗り場に向かった。
孝一郎は、強がる可愛い女の背中を見送り、『大丈夫だよ』と呟いた。

都内のワンルーム・マンション。ドアにはクリスマス・リースが飾ってある。由里子は鍵をあけ中に入った。バッグをベッドに放り、買物袋を持ったまますぐにキッチンに向かった。冷蔵庫に飲み残しのワインのボトル。浅く刺されたコルクを指で抜き、鍋に注いだ。
『「今週も行けない」「いいの、いいの。強い子だから平気。全然気にしてなーい」』
由里子はコンロの火をつけ、鍋の中の赤ワインに向かって言った。最初の台詞は低い声で、後の台詞はカン高いブリッコ声で。彼との電話の再現一人芝居だ。
『「あなたの家庭を壊すつもりなんてササラサラないわ。好きになった時はもうあなたが結婚していた人だったから、しょうがないじゃない」「しょうがいよな、ワハハ」』
最初はブリッコ声で、次は彼を真似て。買物袋からクローブとシナモンとオレンジ、レモン、そして蜂蜜を取り出して、カウンターに並べた。オレンジはよく洗って皮を剥き、レモンは絞ってジュースにした。小さな鍋の中で赤ワインが泡立ちはじめた。そこに、用意したすべてのものを放り込んだ。
『「最初の頃は週に1度は、会っていた。半年で10日に1度。2年目には月に1度。3年目の今年は、2か月に1度。クリスマスは1度も会えなかった。永遠に会えない。女は泣いた。初めて、泣いた」』

落ち着いた声で、ト書きを読むように。あるいはプロジェクトXのナレーションのように。クローブとシナモンの独特な薫りに甘いが混ざり、ワンルームの部屋に立ちこめた。由里子はキッチンの火を止め、おおぶりのカップにそれを注いだ。
カップを持ち、ベッドサイドに歩いた。カップから薫り立つホット・ワインの薫りを吸い込んで、テーブルに置いた。
週の始まりに1度。福岡の彼から電話だけはキチンとあった。由里子からは決して電話をかけない。ルールだった。彼には妻子があった。由里子はそれを承知で恋に落ちた。3年前に出会ってすぐに、東京から福岡への彼の転勤が決まった。会えない時間と距離が、よくある社内の上司と部下の不倫を、新鮮なものに変えた。

クリスマスは女友達と食べ歩き。お正月は実家で家族と過ごす。恋人がサンタクロースと鼻歌を歌いながら12月になると、何故かときめいていた頃の若さが妙になつかしかった。数年前から由里子のサンタクロースはクリスマスには、いない。

由里子は本棚のボックスから、彼と泊まったシティホテルの封筒を取り出し、表に福岡本社の住所と彼の部署・彼の名前を書いた。便箋にHUGのマスターからもらったレシピを写し、最後に『もう終わりにします。ありがとう』と書き、封をした。それからひとつ、ため息をつき、コートを脱いで丸め、そのカシミアの塊をギュッと抱きしめ、しばらく動かなかった。
ホットワインの濃く甘い匂いが、部屋を満たした。

 

次回をお楽しみに・・・

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