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#5 / アッフォガート


私の名前は戸嶋孝一郎。通称、マスター。45歳の時に大手商社部長職を辞し、その後10年間、世界各国でバー、カフェの職人修業。現在60歳。この空港の一番隅っこで、「エアポート・カフェ・ハグ」という小さな軽食喫茶店を営む。『HUG』と書いてハグ。スカンジナビア語が語源で、愛情をもって両腕で抱きしめる、という意味だ。
「おかえり」「いってらっしゃい」「ありがとう」「さようなら」「元気で」「がんばれ」「うれしい」「愛してる」・・・そんな心の言葉の代わりに、人は人を抱き寄せる。この店には、いや、この空港には、そんなハグの心模様というのだろうか、それが、ちょっとした具合でほんの少しこぼれる事がある。これは私が、空港という名の舞台で見た小さな抱擁の1コマ。それぞれの人がギュッと抱き寄せあった腕の中から零れた、ひとつひとつのひとりひとりのなにげない物語を、プレーゴ、シル・ブ・プレ。

『今週は会えないな。来週はきっと大丈夫』
年明けの大混雑が少しだけ落ち着いた羽田空港ターミナル。16:55。5分遅れで飛行機は羽田に到着した。濃いベージュのロングコートの女性が右手にホテルの紙袋を下げ、左手に小さな女の子の手を引いている。到着ロビーから出口に向かう人波をはずれ、エスカレーターを上がり出発ロビーに出た。ふたりは真っ直ぐにHUGの店内に入ってきた。孝一郎と目が合うと女性は軽く会釈した。

高橋彩。彼女は一級建築士資格を持つインテリアコーディネーター。3年程前に初めてHUGに来て以来の馴染みのお客だ。福岡に住む高校時代の友人の、結婚式の帰りという事だった。彩は高校の途中まで福岡で暮らし、両親の離婚によって母親とともに都内に越してきたのだった。

「マスター、あれください」
「彩さんは、こればっかりですね」
「好きなんですよ。紗英にもよく作るんです」
孝一郎はバニラアイスクリームに煎れたてのエスプレッソを注いで、カウンターに座ったふたりの前に差し出した。
「大きくなりましたね。紗英ちゃん」
孝一郎の言葉に彩は微笑みながら応えた。
「ええ。もう、4歳」
そうですか、と孝一郎は目を輝かせて湯気を立てるアイスクリームを見つめる娘の方に笑顔を向けた。
「あほがーと!」
褐色のイタリアの代表的ドルチェを見て紗英が叫ぶ。
「おお、よく知ってるねぇ」
「あいしゅくりーむにえしぷれっちょをかけると、あほがーとなんだよ。ねー、ママ」
彩はバッグからハンカチを取り出し、娘の喉元に布の端を差し入れ、胸の前に広げた。それからアッフォガートのエスプレッソのかかっていない部分をスプーンですくって娘の口に運びながら、ママのアッフォガートよりおいしいでしょ、と言った。
「うーん。ママのほうがじぇんじぇんおいしいよっ」
サ行が上手く言えない紗英は、その口の周りについたアイスクリームを掌で拭いながら彩を見上げて笑う。
「そうか。じゃ、ママに作り方、教えてもらわなくちゃね」
孝一郎の言葉に、紗英は少し考えてから言った。
「しょうね。しょれは、いいとおもうよ」
彩は孝一郎に向かって肩をすぼめ、温かく冷たく甘く苦いアッフォガートを口に運びながら大きく微笑んだ。
「ちょうど今頃でしたよね。初めて彩さんがHUGに来られたのは」
孝一郎はショート・グリッシーニを紗英に手渡しながら言った。紗英は彩が頷くのを見てからショート・グリッシーニの先でアッフォガートのアイスクリームを突ついた。
「紗英はまだ赤ちゃんだったねえ」

紗英を見ながら彩は話した。3年前の今頃。HUGに、彩はひとりの男性と座っていた。ふたりの隣に置かれた乳母車の中で眠っている紗英。男性は彩の元恋人。もともと彩と同じ建設会社の上司だったが独立して建築事務所を持っていた。彩は彼との結婚を夢見ながら、会社に残り仕事と勉強に励んだ。彼は言った。
『自立している女性が好きだ。男にしがみつくためだけに女を磨くような女性じゃない君が、好きだ』
その気になって頑張った。頑張れば、ずっと一緒にいられる。そして一級建築士の資格を取得した。ある時、恋人は言った。
『君はひとりで生きていけるけど彼女は俺がいないとダメなんだ』 
その言葉を最後に恋人は彩から離れ、他の女性と結婚。数か月後、彩は妊娠していることがわかった。悩んだ末、いわゆる未婚の母を選んだ。

「もう大丈夫。紗英がいるから。これからもずっと生きていける。ねえ」
彩は笑って言った。
「あの時はほんとに偶然。ガレリアの2階の本屋で声をかけられたんですよ。元カレに」
ガレリアは羽田空港ターミナルの中央にあるショッピングモールだ。ガレリアをはさんで右側が北ウイング、左側が南ウイング。彩は2年前、離婚した父親の葬式のために福岡に行くところだった。
紗英がハンカチを敷いた胸にアイスクリームを落とした。彩はそれを指ですくって舐めながら続けた。
「あの時、カレは私が誰かと結婚して子供を生んだと思ってたみたい。『旦那さんはどんな人』とか聞いてましたから。素敵な人よって誤魔化しましたけど、お茶でもどうって事になってHUGにふらふらと」
孝一郎は指輪をしていない彩の指を見ていた。彩はアッフォガートに夢中の紗英の頭を撫でた。

「ずっと教えるつもりはなかったんですけど、今日、実は教えちゃったんです。偶然っていうか勢いっていうか」
彩の友人である新婦の旦那になる人が、何とカレの会社に勤めていた。カレの奥さんの実家が福岡で工務店をしていた関係で、結局、婿養子というカタチで家を継ぎ、中堅の建築設計会社の社長として福岡に住んでいたのだった。
「そういうのも縁というか、運というか。何なんでしょうね」
孝一郎は紗英を見つめながら言った。
「招待状の名前を見て、名字が変わっていない昔の恋人の名前を見つけてびっくりしたそうです。まさか自分の会社の社員が昔の女の友人と結婚するとは思わなかったみたい。で。それとなく聞いて、ひょっとしたら3年前のあの赤ちゃんはって、思っていたらしいですよ」
福岡空港から車で約15分。博多駅と天神地区のほぼ中央にある複合都市「キャナルシティ博多」の中央に、その披露宴会場となるホテルはあった。披露宴が終わった後のホテルのロビーで、カレと話をしたという。
「『どうしてあの時、妊娠していると言ってくれなかったんだ』って、これ以上悲愴な顔はないって勢いで言うんですよね。はぁ?って感じでしたね、正直なところ」

カレが他の女と結婚を決め、その数か月後に妊娠がわかった時、彩は母に相談した。
『ずいぶん段取り飛ばしたわねえ。結婚と離婚をすっ飛ばして、出産って。ほんとにそれで、いいのね?』 
母は笑って彩の肩を叩き、そっと抱きしめてくれた。泣いた。別れたのが悲しいとか、寝取られたのが悔しいとかでもなく。母に申し訳なくてというのでもなく。母の腕に抱かれて、何か温かくて懐かしくて柔らかくて甘やかで。大丈夫、頑張れる。そんなエネルギーが彩を満たし、涙と一緒に余計な後ろ向きの感情を流してくれた。
『認知してなんて言わないから安心して。お幸せに』そう言って、彩はロビーのソファで待っていた紗英の手を取りホテルを後にした。紗英はカレに、ばいばいと手を振っていたという。
彩は話し終えてから、アッフォガートをもうひとつ、孝一郎に注文した。

「温かくて冷たくて甘くて苦い。母の腕よりは遥か遠く及ばないけれど、少し似ている。そんな味なんですよね。マスターのアッフォガート」
あほがーと。と紗英が復唱した。彩の言葉に孝一郎は目で会釈しながら紗英に微笑んだ。

ジャンヌ・モローがこんな事を言っている。『恋愛はポタージュのようなものだ。始めの数口は熱すぎ、最後の数口は冷めすぎている』と。

 

次回をお楽しみに・・・

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