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#6 / ミモザの紙


私の名前は戸嶋孝一郎。通称、マスター。45歳の時に大手商社部長職を辞し、その後10年間、世界各国でバー、カフェの職人修業。現在60歳。この空港の一番隅っこで、「エアポート・カフェ・ハグ」という小さな軽食喫茶店を営む。『HUG』と書いてハグ。スカンジナビア語が語源で、愛情をもって両腕で抱きしめる、という意味だ。
「おかえり」「いってらっしゃい」「ありがとう」「さようなら」「元気で」「がんばれ」「うれしい」「愛してる」・・・そんな心の言葉の代わりに、人は人を抱き寄せる。この店には、いや、この空港には、そんなハグの心模様というのだろうか、それが、ちょっとした具合でほんの少しこぼれる事がある。これは私が、空港という名の舞台で見た小さな抱擁の1コマ。それぞれの人がギュッと抱き寄せあった腕の中から零れた、ひとつひとつのひとりひとりのなにげない物語を、プレーゴ、シル・ブ・プレ。

美咲は煙草に火を付けて、ひと口吸うと、すぐに小さな灰皿でもみ消した。灰皿には途中から折れた長い吸い殻が積み重なっていた。途中で目覚ましが鳴り、それを止めて煙草に火をつけた。何本かの吸い殻からは煙がくすぶり、幾筋かの煙の糸が立ち昇っていた。携帯電話に当てた耳が少し痛く感じた時、美咲は言った。
「・・・そう、わかった。もう切るわ。私、これから福岡に出張なの。ええ、あなたこそ。元気でって言ったって・・・」

美咲の言葉の途中で、携帯電話は切れた。美咲は電話を切るかわりにベッドにそれを投げつけた。ベッドサイドの灰皿から立ち昇る煙は、肌寒い部屋の空間に薄い雲のように漂う。朝日が窓から差し込み、薄紫の煙草の雲を意外に綺麗な景色に見せていた。

クリスマスケーキ、という言葉が美咲の口から、ふとこぼれた。12月24日までは人気があって売れるけれど、25日を過ぎると売れ残るクリスマスケーキ。美咲はもうすぐ26歳の誕生日だった。3年つきあった恋人にクリスマスの1ヶ月前に別れの電話をもらうなんて。
美咲は、ベッドから立ち上がり灰皿を持ってキッチンに歩いた。蛇口を開き、吸い殻を生ゴミ入れに洗い流した。ベッドに戻り、携帯を取り、電源を切った。液晶画面に時間が表示される。7:40。別れる事がふたりにとってどれだけ意義のある事かという元恋人の言い分を、20分以上も聞いていたことになる。
ばかみたい。シャワー浴びる時間もないじゃない。
美咲は言葉の代わりにため息をつき、窓を開けた。冷たい早朝の空気が煙りに満ちた部屋の空気と入れ替わる。美咲の肌に鳥肌が立つ。すぐに窓を閉め、美咲はパジャマを脱ぎ、スーツに着替えた。
化粧を終え、壁に立て掛けた鏡に全身を映し、点検する。11月の寒い朝、出張前に別れの電話をもらったもうすぐ26歳の女が映っていた。

このぐらいで泣いてたまるか。美咲は携帯を入れるために出張用のバッグを開けた。すると、バッグの中から、柔らかく清々しい薫りが漂ってきた。薫りの素は、羽田の小さなカフェでもらった紙だった。先週の出張の時、『HUG』のマスターにもらった紙だ。ハンカチに包んだまま忘れていた。ハンカチを開けると板ガムほどの大きさの紙が現れ、ミモザの薫りが煙草の嫌な匂いを包み込むように消した。
美咲は濡れた灰皿をティッシュで拭き、その紙をふたつに折って灰皿に置くと、角に火をつけた。片面に『OFFICINA SANTA MARIA NOVELLA FIRENZE』と書かれた文字がジリジリと軽い音をたてて燃えてゆき、煙が部屋に舞い上がる。世界最古の薬局、フィレンツェのサンタ・マリア・ノベッラで売られている、紙だ。

『イタリアのバールで仕事をしていた時に、いつも朝8時に店に来る女性がいたんですよ。その人が動くと微かにいつも素敵な薫りがするんですね』
美咲は少しずつ焦げるように燃える紙を見ながら、『HUG』のマスターの話を思い出していた。

『それで私、聞いたんですよ。素敵な香水ですねって。そしたら、彼女は香水なんかつけてないって言うんですね。食品関係の仕事をしてるから香水はつけないんだと言いましてね。すると彼女はバッグからこの紙を取りだして見せてくれたんですよ。春の匂いがするって言ったらミモザの薫りが染み込ませてあるんだって教えてくれました。バッグに入れたり、ポケットに入れたり、クローゼットに入れておいてもいいんですよ。焚くと、部屋全体をミモザの微かな薫りで包んでくれます。私はペペロンチーニを出した後や煙草の匂いがこもった時に、お店で焚くんですよ』

とても興味を持った美咲に、『HUG』のマスターがその1枚をくれた。その話の女性が自分と同じ食品関係の仕事をしていたからかもしれない。確か赤い小さなボックスに入っていたと記憶する。なんて名前だったかしら。美咲は、今、部屋で別れの煙草の匂いを春の優しい匂いで包み込みながら燻る1枚の紙を見ていた。

『2月中旬。南フランスのボルム・レ・ミモザではミモザの開花時期に、春の到来を祝ってミモザ祭りが行われます。ミモザの花や蜂蜜を売る屋台が並んで、ミモザの花で飾られた山車や子供たちのパレードもあります。イタリアでは3月8日の、女性の日と言われる日に、お世話になった女性にミモザの花を贈る習慣があって、街には臨時のミモザの花屋さんが現れたりするんですよ』

マスターの話を思い出すたびに、美咲は心が柔らかくなっている自分を感じた。紙が燃え尽き、黒い灰になると、部屋は優しい薫りに満たされていた。鏡の前にもう一度立って鏡の中の女に微笑みかけた。大丈夫、あなたは大丈夫。美咲はそう口に出して言うと部屋を出て、羽田に向かった。

『ミモザの香りは心配や不安を払い、気分を爽やかにすると言われます。他の人に心を開いて交流を求めるようにさせるこの香りは、少なからずイタリア人気質に影響していると思われますから、新しい人間関係を築こうとするときは、この薫りを自分に移しておくと効果があるかもしれませんね』
マスターは、そう言って美咲に、その紙をくれたのだった。きっと疲れた顔をして、煙草の嫌な匂いを体中に染み込ませていたのだろう。『HUG』でマスター相手に仕事の愚痴をこぼしていた。私はお酒はあんまり飲めないけど、その様子は酔っ払いのサラリーマンとほぼ同じだったに違いない。きっとそうだ。美咲は駅のホームで、バッグを開けると、煙草とライターをゴミ箱に捨てた。

9:00過ぎ。搭乗手続きを終え、『HUG』のドアの前に立った。美咲はバッグを開けハンカチを口に当て、ミモザの薫りを深く吸い込んだ。ドアを開け、微笑みの表情とともに「マスター、おはようございます」と言った。
孝一郎はカプチーノを煎れる姿勢のまま顔だけを上げ、「おはようございます」と微笑した。カウンターに座り、カプチーノを注文しながら、あの紙の話を切りだした。
「なんて名前でしたっけ、思い出せなくて」
「ああ。アルメニア紙ですね。お気に召しましたか」
美咲は差し出されたカプチーノの泡に唇をつけながら、温かい珈琲が咽を伝わり身体の中に沁みてゆくのを楽しんだ。美咲は煙草をやめられそうだと告げ、アルメニア紙がサンタ・マリア・ノベッラの青山の支店で手に入る事を聞いた。

『ありがとう』

美咲はカウンター越しに、孝一郎の首に両手を回し、軽く抱き寄せ、頬にキスをして、最終搭乗アナウンスの流れる中、搭乗口に走った。その後ろ姿を見ながら、孝一郎は頬をさすった。美咲の髪から、微かに遠い春の薫りが漂っていた。

 

次回をお楽しみに・・・

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