節約レシピやバイキングなど「なっとくおとく」TOP

#7 / ホットチョコレート


私の名前は戸嶋孝一郎。通称、マスター。45歳の時に大手商社部長職を辞し、その後10年間、世界各国でバー、カフェの職人修業。現在60歳。この空港の一番隅っこで、「エアポート・カフェ・ハグ」という小さな軽食喫茶店を営む。『HUG』と書いてハグ。スカンジナビア語が語源で、愛情をもって両腕で抱きしめる、という意味だ。
「おかえり」「いってらっしゃい」「ありがとう」「さようなら」「元気で」「がんばれ」「うれしい」「愛してる」・・・そんな心の言葉の代わりに、人は人を抱き寄せる。この店には、いや、この空港には、そんなハグの心模様というのだろうか、それが、ちょっとした具合でほんの少しこぼれる事がある。これは私が、空港という名の舞台で見た小さな抱擁の1コマ。それぞれの人がギュッと抱き寄せあった腕の中から零れた、ひとつひとつのひとりひとりのなにげない物語を、プレーゴ、シル・ブ・プレ。

サンタクロースがケーキやプレゼントを売って駆け抜け、年末年始はおせち料理や初売りに獅子舞が踊り、ひと呼吸置いてチョコレート屋さんを筆頭にセール花盛りのバレンタインデー。
デパートをはじめ日本の商店街は、月毎に目玉のイベントに合わせて律儀に模様替えが行われる。空港のショップや飲食店も例外ではない。
孝一郎はそんな日本の風習が嫌いではなかった。ヨーロッパで修行していた数年間でそんな国はなかったが、宗教等にこだわらず何でもアリのこのいい加減さが、この国の平和の秘密かもしれないと思っていた。HUGの入り口にもささやかにではあるが、世間の風習に合わせるように小さな紙がガラスのドアに貼り付けてあった。
『ホットチョコレートはじめました』と。

慌ただしい空港内にあるショップの中で最も静かな(つまり、流行っていない)店はHUGだろう。店内にはOL風のふたり組と30歳半ばくらいの女性がひとり、ヴァイオリン・ケースをひざに置いてエスプレッソを飲んでいるだけだった。
「ねえ、今年のバレンタイン、どうする」
「今年は土曜日だから会社は休みだし、義理チョコがいらないから楽よね」
「そうかなあ。上司とか、結構、期待してるんじゃないかな」
「んー、かもねー。でも、なんでチョコレートなんだろうね。ねえ、マスターも期待しちゃったりする?」
OL風の女性が、孝一郎に話しかけた。
「いいんじゃないですか、期待したいですね。セチガライ世の中ですから、少しでも楽しい事には素直になりたいですね」

孝一郎は、続けて少しだけバレンタインデーの風習の歴史を話した。日本で最初にバレンタインデーの広告を出したのは、昭和11年のモロゾフと言われている事。その後の戦争の時期を経て、昭和33年にメリーが、新宿伊勢丹デパートでキャンペーンセールをしたものの、最初の年はそのコーナーではチョコレートはわずか5個しか売れなかったという事。その頃からメリーと森永だけが毎年バレンタインの広告を出し続け、昭和50年頃から定着したという事などなど。

へぇ、とOL達はあまり興味なさそうに相づちを打って聞いていた。孝一郎は映画の『ショコラ』について話しはじめた。
「物語の舞台はフランスのとある田舎町。1920年代にあの高級チョコレートのゴディバが生まれた村なんですよ」
閉鎖的で古い因習の多い村の人々が、お客の好みにピタリと合ったチョコレートを提供することができる主人公とのふれあいによって、自由と人間性を取り戻すという、大人のファンタジー。主人公の彼女には人の心が読める霊感があったが、孝一郎には、なかった。
だから何、という顔でOLふたりは顔を見合わせて笑っていた。孝一郎は、自分に霊感が無い事を知らずに、カウンターの中でミルクを火にかけた。
「うちのホットチョコレート、試してみませんか」
無料特別サービスと念を押して孝一郎が言うと、OL達は、どうする,と小声で言い合った。
「あたし、パス。太りそうだし。そろそろ行かなきゃ。ごちそうさまぁ」

OLふたりは、料金を支払うとそそくさとHUGを出ていった。孝一郎はヴァイオリンをひざに乗せた女性を見た。
「いかがですか」
孝一郎の声に、その女性はまず腕時計に目をやり、顔を上げ、孝一郎に視線を移してから、言った。
「はい。ぜひ」
沸騰寸前のミルクの鍋に、削ったチョコレートを入れ静かにかき混ぜる。ミルクが沸騰しないように数回、この作業を繰り返すと、香ばしく甘い薫りがHUGの店内に広がった。
「ブランデーは大丈夫ですか」
孝一郎は女性がコクリと笑顔を揺らすのを待って、数滴のコニャックを垂らした。とろりとした褐色の液体をカップに注ぎ、生クリームを少しだけ流した。
女性は目の前のカップを引き寄せ、口の前で一瞬止めると目を閉じて薫りを吸い込んだ。それから唇をカップに触れさせてホットチョコレートを口に運び、静かにのどの奥へと運んだ。喉が上下に動き、カップを静かに置いた。
「こんなに本格的なショコラ・ショーは、久しぶりです」
女性は孝一郎に顔を向け『マスター、霊感あるかもしれませんよ』と言った。ショーは英語で言うとホット。 つまりショコラ・ショーとは、仏語でホット・チョコレートのこと。ベルギーやフランスのチョコレート専門店ではショコラ・ショーとメニューに載っている。
「チョコレートは、テオブロマというお店のものなんです。同じ味はなかなか出せないですけどね。日本人の有名なショコラティエのお店なんですよ」
孝一郎の言葉を聞きながら、女性はショコラ・ショーを飲む。
「ヴァイオリン、なさるんですか」
女性はカップを置き、膝の上のヴァイオリン・ケースをカウンターの上に置いた。
「これでも、ヴァイオリニストなんですよ」
女性は有名なアーティストのCDやコンサートにも参加しているヴァイオリニストだった。これから福岡にコンサートでの演奏に向かうところだという。ベルギーの音楽学校を卒業し、そこで出会った日本人の男性と結婚したが、数年で離婚し、ひとりで日本に戻ってきたという事だった。
「『ショコラ』って映画とおんなじですね。気分が軽くなって、何だかおしゃべりになってしまいました」

甘くてほろ苦いチョコレートにはアンフェタミンという恋の物質が含まれている。そもそもアンフェタミンには気分を高揚させる効果があるが、実は恋をすると脳内にこれと同じような物質が出るという。古代アステカ時代、王様たちは女性を愛する時に恋の媚薬としてホットチョコレートをあおり、恋心を高揚させていたともいう。

「告白ついでに、実は、今度のバレンタインに、別れた旦那と会う約束してるんですよ。5年ぶりかしら」
男と女が別れた後に芽生える感情があるとすれば何だろう。友情以上恋未満、と彼女は笑った。
孝一郎は、受け売りですよと前置きして、こう言った。
「ヴァイオリンやヴィオラやチェロといった楽器は弾き続けるうちにある楽器に使われている木の細胞がある一定の方向を向くと聞きました。弾き手の癖に反応した一定の方向に。つまり弾き手の感情が、日々の繰り返し、時の積み重ねで、ごまかしの効かないその人の音になる、と。本当にそうなんですか?」
「ええ。そう思います。きっと、弾き手の感情が木の細胞に写し取られているはずです」
「で、あれば、彼とお会いになる時、ヴァイオリンをお持ちになるのがいいんじゃないですか」
「そうですね。5年分の言葉よりも、上手に何かが伝わるかもしれなませんね」
彼女はそう言ってホットチョコレートを飲み干した。
「このチョコレートのお店、どこにあるんですか」
孝一郎は、テオブロマの広尾にある店を教えた。すぐ隣には有栖川公園が広がっている。
彼女は腕時計に目を落とし、席を立った。帰り際、カウンター越しに孝一郎の首に腕を回し、頬を軽く付け、素晴らしい微笑みを残して、HUGを出ていった。ドアが開いた時、空港のざわめきと福岡便のアナウンスが大きく聞こえ、ドアが閉まるとともに静かになった。

孝一郎は、カップについた口紅のうすい朱色を眺めながら、バレンタインの日、公園の片隅でヴァイオリンの音色が響くのを想像し、頬を撫でた。

次回をお楽しみに・・・

作者プロフィール
バックナンバー>>
節約レシピやバイキングなど「なっとくおとく」