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#1/フィレンツェの百合
 


  
「今日、帰るのやめようかな」
「だめよ。明日は朝から外せないアポイントメントがあるでしょ」
山室優介はうつ伏せになったまま右手を後ろに回し、片岡絵里子の胸元のカーブに添って滑らせ、その指を自分の唇の上に持ってきて深呼吸した。
「残念ながらそうだった。でもさ、この匂いに間違いないんだよね。絵里子以外には、これまで全く覚えが無い匂いだから、驚いたよ」
「どんな人だった?」
「美人」
「声は、ちゃんとかけた?」
「いや。妹だとマズイと思って辞めた」
「妹はいないわ」
「だよね。じゃ、女の恋人とか」
「そうね、そのテがあったわね」
「それだけは、勘弁して。そういうのって、男じゃ太刀打ちできないって言うから」
「ふーん。そうなんだ」
「冗談はとにかくさ、その香水の名前、教えてくれよ」
「その美人にお聞きなさい。はい。おしまい。着替えて。続きはまた今度」

絵里子は優介の頭を指先で細かく刺激するマッサージを終え、オシリをポンと叩いた。



5年前、優介は実家のある福岡で映像制作会社を友人数人と一緒に興した。銀行を辞めた男と広告代理店の営業だった男、そしてカメラマンの優介。小さな地方の会社としては結婚式の映像から企業PR、イベントの記録映像、地元企業のCM、自分史のビデオ制作まで、何でもこなした。優介はカメラマンとしての腕は確かで、しばしば東京の大手のイベント会社からカメラマンとして仕事を請け負っていた。ある航空会社の社内教育ビデオ撮影の時、優介は絵里子に会った。絵里子が講師役で出演するフライトアテンダントだった。ふたりはその後すぐに交際をはじめ、半年後、結婚の話をするようになった。しかし、すぐに結婚は辞めた。別れたわけではないが、恋人というわけでもない。ただ、どこかでいつも繋がっていられればいいのかもしれない、と結論を出したのだった。

その後、絵里子はフライトアテンダントを辞め、英国式・タイ式・インド式・中国式等のあらゆるマッサージ技術やリラクゼーションにまつわる知識を習得し、数年後、都内で小さなエステティック・サロンを開いた。美顔や痩身はもちろんだが、マッサージを基本として、心身のリラクゼーションをメインにしたサロンだ。絵里子の店は、元・国際線の乗務員をしていた経験とネットワークで、働く女性の隠れ家的サロンとして繁盛していた。

「お店は1ヶ月先まで予約がいっぱいなんだろう?」
優介はジャケットを着ると、リビングのソファに座った。
「おかげさまで。はい、お茶」
「君自身の予約も、いっぱいかな?」
優介は、ほのかに甘い匂いの文山包種茶を唇に運んだ。
「そうかもね」
「君と同じ匂いの美人に予約を入れてもいいわけ?」
「ご自由に。あなたも私も誰のものでもないから」
「やっぱり、結婚すべきだったかな」
「すべきではなかったわ。今の自分は正解だもの。このまま、ときどき、あなたの素敵な失恋の話を聞かせて。ほら、月が綺麗よ。素敵なナイトフライトね。送ってくわ」

絵里子は優介の帰りを促すように、マンションの玄関のドアを開けて、空に浮かぶ月を見た。優介が一口飲んだ中国茶は、咽を少し熱くして、昔の自分の言葉を思いださせた。

結婚というのは、空に似ている。そこに確かに見えるのに、実体としては何もない。ただ、見えるのは、空という何もない空間を通りすぎる太陽の光であり、雨であり、雪であり、雲であり、星であり、月だ。優介は、数年前、そう言った。そこにはいろいろな想いが漂っている。いや、正確には風のようなものが、空に吹くのだ。やすらぎ、とまどい、あこがれ、せつなさ、痛み、癒し・・・。そんな大きな空には、僕らはなれない。そう、言った。

そんな言葉に応える代わりに絵里子は、笑って昔のスタンダードを口ずさんだ。

Fly me to the moon・・・。

「オカケニナッタデンワバンゴウハタダイマデンワニデルコトガデキマセン。
ルスバンデンワサービスニ・・・」

羽田からの最終便に優介を送った空港の見送り用のデッキ。絵里子は携帯電話のアンテナを伸ばしながら、留守番電話のメッセージが流れ終わるのを待った。優介の飛行機が離陸するのを見ながら、送話口に手を添えて言った。
「フィレンツェの古い教会の薬局の香水。サンタマリア・ノベッラの百合」
夜風が、カサブランカをシャンパンに浮かべたような香りを絵里子の髪とともに巻き上げて、消えた。

次回をお楽しみに・・・

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