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#2/火の花
 


  
22:30、山室優介は羽田のロビーを抜け、タクシー乗り場に向かった。運転手に行き先を告げながら内ポケットの煙草を出した優介は、抜き取った煙草を指先で転がし、窓を少し降ろした。排気臭の混じった夜風が車内の静寂を破った。
「煙草、吸ってもいいかな?」
「え。あ、どうぞ」
運転手は小さく肩で息を吐き、運転席の窓を大きく開けた。夜風が乱暴に吠える。助手席シートに付けられた灰皿を優介が開けると、そこには吸い殻が1本もなかった。 「いいや。止めよう。窓、閉めてください」
優介は煙草をパッケージに戻し、窓を閉じた。運転手も窓を閉め、咳払いをしながら、軽く声を弾ませた。自分は禁煙して半年で、止めてから3ヶ月くらいは死ぬほど辛かったと自慢気に話し始めた。



「禁煙か。考えた事もなかった。僕の煙草は惰性みたいなもんだから」
「いつでも止められると思ってたんですけどやっぱり中毒になっちゃうんでしょうね」「止めたい時に止められる自分を持っていられる事はスゴイ事だよね。いつでも・・」
優介は『何に対してでも』と口の中で呟きながら、片岡絵里子を思った。友達以上恋人未満。いや、恋人以上結婚未満。違う。単に特別な次元の異性というのが正直なところだろう。運転手は何に気をよくしたのか景気や野球の話を、絵里子のリラクゼーション・サロンに着くまで、しゃべり続けた。優介は運転手の話に適当に相槌を打ちながら、煙草を吸わなかった事を30分間、後悔し続けた。タクシーを降り、優介は煙草に火を点け深く吸った。吸いながら携帯電話を出して絵里子の番号を押した。

「お帰りなさい。もう近くにいるんでしょ?」
「ああ。絵里子のサロンの真下で煙草を吸ってる」
「おいしい?」
「まずい」
「そう。じゃ、火を消して。上に来て」
優介は顔を上に向けて煙を吐いた。ビルの形に切り取られた空に、月が浮かんでいた。
「上弦の月かな」
「満月に向かってるのね」
「ああ。1週間後は満月だね」
話しながら優介は絵里子のサロンの部屋番号を押した。2回目の呼び鈴の後、絵里子の声が携帯電話とオートロック操作盤のスピーカーの両方から聞こえ、ドアが開いた。
「たぶんエレベーターの中で切れるよ」
「そうね。切れる前に、切って」
優介は携帯電話を切り、内ポケットに入れてエレベーターの文字盤の『10』を押した。
10階でエレベーターのドアが開くと、絵里子がバスローブを持って目の前に立っていた。微笑みながら絵里子はエレベーターの中に入ってきて、『11』の番号を押した。
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃいました」
「私の、この部屋に泊まるのは初めてね」
「そうか。サロンの上に住んでたのか。世田谷の実家から通ってるんじゃないんだね」
「サロンの家賃と自宅の30年ローン。あと25年。私も結構、頑張ってるでしょ」

ふたりは5年前に結婚を約束した。優介は福岡で会社を立上げたばかり。絵里子は国際線のフライトアテンダントをしていた。その後、しばらしてふたりの意見は全く逆の結論で、強く一致した。『結婚というカタチはふたりにとってあまり意味がない』。

「あの時、買ったのか?」
エレベーターが11階に着き、優介は絵里子の後を付いていった。
「まあね。結婚するからって言って両親に頭金も出してもらっちゃった手前、別れたからやっぱり家に戻るってワケにもいかないでしょ。それに、この部屋とても気に入ってるんだ。ほら、見て。サロンにはないのよ。これ・・・」
絵里子が部屋のドアを開けて、バスルームの部屋に優介を導いた。そこは10畳ほどの広さ。奥の壁に大きな窓がひとつ。夜景がそのまま一幅の絵のようだ。床は半分がフローリングで半分が大理石貼り。大理石貼りの床部分の窓に寄せて猫足のバスタブが置かれている。4畳半一間分が仕切りのないバスルーム。絵里子がバスタブの縁に腰掛けた。
絵里子は『どうぞ』というふうに小首を傾げてバスタブに優介を促し、10cm四方の若草色の袋からティーバッグのようなものを取りだした。

ブルガリのバス用ティーバッグ。
バスタブの縁には2本の華奢な蛇口が突き出ている。蛇口のバーを傾けると、優雅な弧を描いてお湯がバスタブに注ぎ込まれた。絵里子はその流れるお湯に添ってバスジェルを流し、バスタブの端に、ティーバッグの金色の紐をかけた。
仄かなグリーンにお湯が染まっていき、真っ白な泡が沸き立つように生まれてくる。同時に、柔らかく爽やかでちょっと気高く、軽く不謹慎。そんな不思議な薫りで部屋中が満たされ始めた。
「遠い記憶の後悔と歓喜に溺れる。そんな匂い」
絵里子は、そう言いながら、優介をバスルームに置いて、部屋を出た。

部屋の灯を落とすと部屋の隅の小さなテーブルが浮かび上がった。直系5cmほどのキャンドルだった。優介は服を脱ぎ、遠い記憶の薫りのするバスタブに入り、お湯を止めた。肩まで泡に浸かると泡が耳元で小さく弾ける音がし続けていた。しばらくすると絵里子が戻って来た。
「ハイ、ここで問題です。夏の終わりに咲く花と言えば?さあ、なんでしょう?」
優介はバスタブから、窓際に立つ絵里子を見上げて首を振った。絵里子は微笑みながら、18cmほどの紙紐のようなものをキャンドルの火にかざした。
「『ひかりなでしこ』って名前がついてるの、これ」
桐の箱から取り出したそれを見つめて、女性花火職人が30年がかりで再現したという線香花火だと言った。

絵里子はキャンドルの火を消し、バスタブの端に座り小さな火花を見下ろす。火花の音とブルガリの泡の爆ぜる音が耳に心地良かった。火花が散るたびに、絵里子の顔の輪郭が浮いては遠のく。その火花の匂いは優介の胸の奥の柔らかい部分を一瞬強く、刺した。線香花火の小さな火玉がバスタブに落ちた瞬間、バスルームの闇が縮んで濃くなった。

次回をお楽しみに・・・

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