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福岡空港ターミナルからタクシー乗り場に出ると、小雨を乗せた風が優介の顔を一瞬横切った。乗り場には若いカップルが1組。タクシーに乗り込むところだった。何気なく女性の横顔を覗くと、優介の頭の奥で記憶のピントがゆっくりと、でも確実に像を結ぶのがわかった。 「香織・・・」 咽の奥で押し殺した声は耳に届くはずはなかったが、彼女は後部座席に乗り込んだ瞬間、優介に振り向いた。彼女の瞳が少し開き何かを言おうとしたのと同時に、ドアが閉まり、タクシーは発進した。 次のタクシーが優介の前に滑り込み、ドアを開けた。優介はホテルの名を運転手に告げた。そのホテルまでは車で15分。優介の映像制作会社の大手取引先のひとつだった。その最上階に誂えられた地上百数十mのチャペルでの結婚式が人気で、大安や週末は、ほぼこのホテルの仕事をしていた。 「5年か・・・」 「え?何ですか」 「いや、何でもない」 優介の独り言に運転手が反応した。タクシーのフロント・グラスをワイパーが規則正しく擦ってゆく音が車内に響く。優介は記憶の箱の紐をため息とともに、ゆるゆると解いた。確かに香織だった。
5年前、東京のテレビ番組制作の会社に勤務していた頃に半年ほど交際した女性だった。彼女はその時、24 歳。優介は30歳だった。その時すでに優介は福岡の仲間3人で会社を興す決心をしていたが、香織には会社を辞めて福岡に戻る、とだけ伝えた。その夜、香織はピアノの置いてあるバーで、1曲歌を歌ってくれた。(They Long To Be)Close To You 『遥かなる影』という邦題でカーペンターズのヒットソングとして有名だが、香織はディオンヌ・ワーウィックのバージョンが好きと言った。優介は宇多田ヒカルがCubic・Uの名で13歳だか14歳の録音したバージョンに似ていると思った。その時の、切なく不思議な香織の声の響きが、別れを一晩遅らせた事も思い出した。 タクシーがホテルの玄関前に滑り込んだ。ドアマンがタクシーのドアに手を添えて迎える。優介はロビーを抜け、ブライダルの打合わせ室へ向かった。約束の10分前。優介の会社のスタッフが打合わせ室の一角に待機していた。 「お疲れさん」 「お疲れさまです。東京の方はどうでした?」 「ああ、うまくいった。テロップの修正くらいで、あとは問題なし。さあ、今日の新婚さんはどんな人達かな?」 「きれいなお嫁さんですよ。東京からお嫁に来るんですって」 「あ、そう」 実際に結婚式でビデオを回すのは、もう若手のスタッフに任せているが、細かい演出の打ちあわせ等には優介も一度は必ず同席する。同席しながらカップルの、特に花嫁になる女性のスナップを何枚か撮ることにしている。このスナップ写真を後日、編集する時に事前にお客様から預かっている写真と併せて効果的に挿入することで、幸福の臨場感をうまく表現することができる場合が多いからだ。 その写真を手に取った優介は息を止めた。ピアノを弾く女性の写真。横顔を見つめていると、先程の空港ターミナルで優介の顔を撫でた雨の匂いが蘇った。 「ね。かなりの美人でしょ?そんなに見つめると、穴が開いちゃいますよ」 若いスタッフがからかうように言う。 「うーん、この旦那さんか。ちょっと嫉妬しちゃうかも」 優介は頭の中で香織の切ない声を聴いていた。その記憶の声を聴きながら、雨の匂いを濃く感じていたが、動揺を見透かされぬように冗談めかして笑った。 「あ、いらっしゃったみたいですよ」 スタッフが目を向けた方向を見ると、ホテルのブライダル担当者が香織と旦那を導いて、優介達のテーブルに歩いてきた。優介達は立ち上がり、丁寧に挨拶を交わした。マニュアル通りに話が進む中、優介は香織の表情をそれとなく盗んだ。香織も何事もなかったように振る舞う。しかし時折、1秒の10分の1程度の視線が絡み合う。優介の耳の奥では、あの歌が流れ、その響きが鼻を通って雨の匂いになって抜けていった。 「では明後日。きっと素晴らしい結婚式になりますよ」 ブライダル担当者は天気予報では秋晴れになると伝えていたと満面の笑みを作り、打ち合わせは終わった。香織と旦那が席を立ち、優介達も立ち上がった。 「ちょっとこちらを向いてください」 優介は香織に向かってライカを構えた。香織は旦那の腕を引き寄せ、笑顔を作った。その後、優介達はブライダル担当と、違うカップル数組との打ち合わせをした。数時間後、すべての仕事を終え、優介はスタッフを『メシでもどうだ』と誘ったが、スタッフはさっさと帰ってしまった。優介は会社で契約しているこのホテルのスパで、マッサージを受けることにして、専用フロアに行き、予約をした。1時間後の予約を入れ、バーラウンジに入った。ウェイターにフローズン・ダイキリをオーダーし、屋外プールの見えるテーブルに座った。 雨が止み、空には月が出ていた。屋外プールの漣が幻想的な照明のせいで、映画の中の出来事のような揺れ方をしている。優介は大きくため息をついた。 「こんばんは」 雨の匂いに包まれた気がした。香織が優介のテーブルに座った。同時にウェイターがフローズン・ダイキリを運んできた。 「同じものを」 香織が言う。優介は香織を見つめた。香織は出会った頃の笑顔で見つめ返した。香織の両親は明朝、来るという。旦那は実家に帰ったところだという。 フローズン・ダイキリが、もうひとつ運ばれてきた。香織がグラスを持ち上げるとダイキリの氷が秘密めいた小さな音をたてて崩れた。あの歌のイントロが優介の頭の中で流れ始めた。 |
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