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「もしもし」 「はい」 優介からの電話だった。絵里子は携帯電話を右耳に当てながら、自分の膝の上に本を置き、ステレオのリモコンを持ち、CDをオフにした。水が弾けるかすかな音。風に乗ってベランダに雨が吹き寄せていた。湿気がゆっくりと部屋の中に広がる気がした。 「今、何してる?」 「本を読んでたわ」 「じゃ、寝室だね」 優介は絵里子がベッド脇の寝椅子でくつろいでいる姿を想像した。絶妙なカーブの美しく起毛した牛皮革に絵里子の背中や腰が乗せられ、膝を曲げた素足を思い浮かべた。 「そうよ。あなたは、今どこ?」 「今は福岡」 「雨は?」 降ってないよ、と言いながら優介は福岡空港へ向かうタクシーの窓越しに、澄み渡った早朝の青空を見上げて言った。 「東京は雨か? でも、数時間後には多分僕も、その雨の空の下へ」 「そう。でも私、寝てるかも」
午前7時。今日は絵里子のリラクゼーション・サロンは定休日だった。休みの日の前日の夜はいつも、新作のレンタル・ビデオやナショナル・ジオグラフィックスのビデオを数本観る。それがいつのまにか習慣となっていた。たいていは、3時か4時にはベッドに入り、正午過ぎまで眠るのだが、今日のように眠れなくなってしまった時は、そのまま読みたくて読めなかった本を眠くなるまで読み続ける。「また、テツドクしてたんだね」 「テツドク?」 「徹夜の読書。今日は何を読んで眠れなくなったんだ?」 絵里子は膝の上に乗せた本のタイトルを見て、優介に言った。 「お天気となかよくなれる本」 「それ、本のタイトル?」 「そうよ」 「童話か何か?」 「いいえ。世界気象博物誌って副題がついてるわ。ニュートンが天気に関心を持ってた話とか、低気圧のまわりの渦巻きのような風は地球の自転によって生じる『コリオリの力』のせいとか、雨の匂いの正体とか・・・」 「ん? 雨の匂いの正体・・・。面白そうだね。何、正体って?」 「1960年代にオーストラリアの科学者たちが発見したの」 「うん。何を?」 「ペトリコール」 「へ?」 「ギリシア語で『石のエッセンス』って意味らしいの。雨そのものの匂いじゃなくて、植物が出す化学物質、ある種の油が、土壌に入り込むのね。それが土壌中の鉄分を触媒にして『雨の匂い』に変化するらしいの。雨が降る前の、相対湿度が80%以上になったとき、その湿気で土壌中の『雨の匂い』が空気中に放たれる、ってことらしいわ」 「ほお。難しい話だね」 「そうね。アリストテレスの頃は雨の匂いの源は、虹だって考えられていたみたい。私はどっちかっていうと『虹の匂い』派かな」 「ふーむ」 優介がとぼけた声を出した時、タクシーは空港に到着した。料金を支払い、タクシーを降りると優介は青空を仰いだ。 「行くよ。雨の空の下へ」 「どうぞ。寝てるけど」 優介は電話を切り、空港ターミナルに入った。 ![]() 絵里子は電話を置き、本を膝から取り上げてテーブルに伏せた。ステレオのリモコンのスイッチを入れ、寝椅子から降りて、CDが回るのを見た。 モーツァルトのセレナード第13番K.525。アイネ・クライネ・ナハト・ムジク。直訳すると『ひとつの・小さい・夜の・音楽』。有名な第1楽章が流れ出した。CDのメタリックな虹色が、雨の音で少し重くなった部屋の空気をかき回し、優しい匂いを放ち始めた気がした。 絵里子は低音のボリュームを少しだけ下げ、スピーカーから2mほど離れた位置に身体の右側をスピーカー・サイドに向けて立った。男もののワイシャツ1枚の絵里子は目を閉じて『ひとつの・小さい・夜の・音楽』に右耳を傾けたまま、深く息を吐き、そしてゆっくり空気を吸い込んだ。第4楽章のロンドを聴き終えた時ワイシャツのボタンを上からひとつずつはずし、床に落とした。裸になり、バスルームに歩いた。 熱めのシャワーが絵里子の素肌を弾く。髪を洗い、身体を洗い終えると、バスルームの小さな窓を少し開けた。湯気が雨の空の下に淡く逃げ出し、シャワールームの湿度と入れ違いに、雨の匂いがシャワールームを満たし始めた。 『ひとつの・小さい・朝の・虹』。 この雨の匂いにタイトルをつけるとしたら、こうだ。絵里子はタオルで身体を包みながら、思った。寝室に戻るとCDは終わっていて雨のかすかな音だけが漂っていた。と、突然悪寒が走り、くしゃみが出た。風邪。それとも、彼・・・。絵里子は、エアコンのリモコンを取り、設定を冷房から暖房に切り替えてから、スイッチを入れた。 「今夜は鍋にしよう」 そう呟いて、濡れた髪にタオルを巻き付けた。 |
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