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頭の奥に鉛でできた太い針が数本、転がっていた。優介は、見慣れた少し広いベッドの中で目覚め、ため息をつき、昨晩の記憶を辿った。近所のバーで、飲んだ。潮風のシングル・モルト、ボウモアを立て続けに5杯、いや、6杯か。バリに絵里子が行ってしまうと聞いた去年の暮れ以来だ。あの夜、優介がバーから戻ると絵里子は何事もなかったように優介を迎えた。そして、翌日の早朝、その事には触れず、福岡に戻った。その後、絵里子は正月にバリに行った。10日ほどして、日本に一旦戻ったと、絵里子から連絡がきた。優介は、急いで東京行きの便で飛んだ。 そして、今日。1月17日。優介は絵里子の部屋を訪ねる前に、暮れに飲んだ近所のバーに行き、絵里子を誘った。しかし、絵里子はバーに来なかった。 この部屋に戻ったのは何時だ?絵里子と何か話したような・・・。深く息を吸うと、濃い独特の薫りが漂ってきた。インドの路地裏のようだ。優介の頭の中の鉛の針が、爪先でタップダンスを踊った。 絵里子がカップを持って寝室に来た。濃い薫りが、鉛の針のダンスに拍車をかけた。 「何だ、その匂い?どこかで嗅いだ匂いなんだけど・・・」 優介の語尾は妙な唸り声になった。 「飲みすぎよ。これはチャイ。飲む?」 「まさか・・・。み、水をくれないか」 絵里子はキッチンからポカリスウェットをコップに入れて優介に渡した。 「私のチャイ、おいしいのに」 アッサムCTCに、カルダモン、シナモン、生姜、ブラックペッパー、クローブを入れて、ミルクで煮出したものだ。普通、お湯で煮出して適量のミルクを混ぜるが、絵里子ははじめからミルクで煮出す。そうすると格段に濃いチャイができあがる。ちなみにCTCとはCrush (潰す)、Tear(裂く)、 Curl(丸める)の略。ロイヤル・ミルク・ティー専用の煮出し用の紅茶の葉。コロコロとした可愛いカタチだ。 優介はポカリスウェットを一気に飲み干すと、ベッドに座ったまま、絵里子を見た。 「昨日、何か話したような記憶があるんだけど」 「そうよ。いっぱい話したわ」 「何て・・・」 「あら。覚えてないの?残念。バリは危ない。テロがまたあるかもしれない。いや、絶対にある。そんな危険な場所に行くのは許せない。とかなんとか。思い出した?」 優介は頭の中の鉛の針を揺らさないように、目を閉じて記憶の糸をたぐった。 「土下座、した?」 「ううん。それは、しなかった。でも、いろいろと演説して、その後、映画を観たいって言いだしたの。覚えてる」 「あ」 優介の記憶の糸は、30年も前の古い映画のワンシーンを引き寄せた。絵里子は寝室のCDのスウィッチをオンにした。するとバーブラ・ストライサンドの切なく優しい声がこぼれだした。 The Way We Are.邦題で『追憶』。ロバート・レッドフォードとの、あの映画のテーマだった。あの映画の中でロバート・レッドフォードが、バーブラ・ストライサンドのほどけた靴ヒモを、膝の上で結んでやるシーンがある。 「『ふたりは全く違う境遇だけど、理解して、愛しあって結婚する。でも、やはり生き方・考え方の相違でお互いを理解しながらも、別れるんだ。切ない映画だけど、あの靴ヒモのシーンはカッコイイ。あんなふうに女の子の靴ヒモを結べる男はロバート・レッドフォードと俺しかいない。絵里子にもぜひ観せたいから、今からレンタル・ビデオで借りてくる』って言って暴れた」 「ううむ・・・」 「CDがあるから、今日はこれで我慢してって言ったの。何度か曲を聴きながら、こう言ったわ。『ほんとは靴ヒモを上手に結ぶのは誰だってできるんだ』って。その後、あなたはベッドにひとりで入って背中を向けちゃったの。その後、私が言った事、覚えてないでしょ?バリには行かないって」 「え?バリ、行かなくていいのか?」 「ええ。私にリラクゼーション・サロンのオファーをくれたホテル・サイドも当分、バリは難しいと判断したの」 絵里子はチャイを大きくすすりながら、言った。 「そうか。よかった。そう。よかった。いい正月だ。うん」 「ああ。やっぱり、聞いてなかったのね。バリには行かなくなったけど、モルディブはどうかって、メールが来たって言ったのに」 「モルディブ・・・」 優介はベッドを降り、リビングにあるコンピュータに向かった。立ち上がっているコンピュータから検索サイトを開き、『外務省』と打ち込んだ。HPでモルディブの安全情報を確認した。 『モルディブのイスラム教徒は、元来インドから渡来した穏健派が主流を占め、イスラム過激派グループとの関係は確認されていません。』 「いろいろ考えると、日本にいるより安全かもしれないな・・・」 優介はHPを閉じて絵里子のいる寝室に戻ってきた。 「アイツは靴ヒモを結ぶ時、心のヒモまでは結べない事がわかっていなかったんだ」 「そうかしら。よくわからないけれど、心のヒモはちゃんと結べたんだと思う」 一度、心地よい状態に結んだ心を、ふたりで了解して、もう一度ほどきあう。そんなヒモも、きっとあるのだと絵里子は言って、チャイを飲み干した。 男と交際のない女は色あせる。女と交際のない男はだんだん馬鹿になる。ロシアの文豪、チェホフはそう言った。1860年1月17日にチェホフ誕生。男と女の心のヒモは、知らず知らずのうちに、あるいは一方的に、ほどけていたりも、する。 |
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