| 節約レシピやバイキングなど「なっとくおとく」TOP | |||||||||
![]() |
|||||||||
|
|
|||||||||
|
|
青空の向こうから黒い雲がゆっくりと島に近づいている。風の暴れるカタチに椰子の葉はねじれ始める。雨が、水平線と空の間にかかるグレーのカーテンのように向かってくるのが見える。青空と黒い雲の狭間に閃光が走り、かなり遅れて低い雷の音が続く。海に突き出たエステティック・コテージの中にも、強い風が吹き抜けた。 「風が強くなったわね」 イタリア人と結婚し、その新婚旅行で来たというイギリス人の女性が言った。 「大丈夫。アッという間に、また晴れますから」 片岡絵里子は彼女の背中から腰へ優雅に滑らせていた両手を止めて、応えた。それからコテージの窓を閉め、ふたたび彼女へのマッサージを始めた。彼女は全身の力を抜き、絵里子の優雅な手の動きに合わせて、静かな深い微睡みの中に沈んでいった。 激しい雨がコテージを包んだ頃、彼女は眼を開けた。そのタイミングで絵里子は隣の部屋に彼女を案内した。そこには3メートル弱のぬるめのお湯が張られたバスタブがあった。お湯一面に、熱帯の花びらが浮かべてある。 「****!」 彼女はいくつかの英語の感嘆詞と賛辞を並べた。
その部屋は海側だけがガラス張りになっている。晴れた日ならば、水平線を挟んだ海と空の、絶妙な青のグラデーションしか見えない。しかし今は、ガラスを叩く大粒の雨で、その窓は白く霞んでいた。「WATSUは、お湯の中でするマッサージです」 絵里子は彼女の選んだエステ・コースの説明をした。WATSUとは、水の指圧。つまり、WATER SHIATSUを略したもので、アジアの高級リゾートの一部で有名になったリラクゼーション・マッサージだ。絵里子がWATSUを担当させているエステティシャンを紹介すると彼女は、あなたはできないの?と聞いてきた。 「ラベンダーのオイルを焚きます。何か好きな音楽はありますか?」 絵里子は微笑みながらアロマ・オイルのメニューと音楽のメニューを渡し、私でよければ、と言った。担当のエステティシャンにも笑顔を送り、自分が代わる旨を伝えた。 「Bohemian Rhapsodyが聴きたい」 彼女はそう言ったが、音楽のメニューにはクラシックとインストゥルメンタルの楽曲しか用意されていなかった。絵里子は自分の私物の中にQUEENのベスト・アルバムがあった事を思い出し、担当だったエステティシャンに、自分の部屋の鍵を渡し、持ってくるように伝えた。 彼女はガウンを脱ぎ、バスタブに入って絵里子に、ありがとうと言った。絵里子は微笑みで応えながら、アロマ・ポットに火を灯し、腰に巻き付けていた更紗をはずし、白いシャツを脱いだ。脱ぐ時、首から下げたネックレスに指が触れ、小さなゴールドのペンダントが揺れた。それはタツノオトシゴのカタチをしていた。 真っ白な水着とネックレスだけになった絵里子はバスタブに入り、彼女をバスタブのお湯に横たえた。絵里子は彼女の背中のツボを下から持ち上げるように押し上げながら、ゆっくりお湯の上を滑らすように揺らし始めた。 雨が窓を叩く。波の音と風の音も、ガラスに遮られ、遠くの子守歌のように響いていた。ラベンダーの薫りが部屋に広がりはじめた。彼女は瞼を閉じながら、話を始めた。 「そのネックレス、ポメラートの『DODO』でしょ? 彼は素敵な人だった? 」 それは山室優介からプレゼントされたものだった。過去形で彼の事を聞いてきた。どうして? と絵里子は聞いた。 『DODO』は、イタリアの老舗宝石店ポメラートのカジュアルなジュエリー・シリーズ。かつてモーリシャス諸島で幸福に暮らしていた翔べない鳥DODOは、人間のせいで絶滅してしまった。ポメラートはそんな自然に対する愛情のシンボルとして、『DODO』シリーズを数々の生き物のシルエットの、金と銀のペンダント・ヘッドにした。ひとつひとつの動物には短いメッセージが付いている。かけがえのない大切な気持ちのカタチとしてのジュエリー・シリーズだ。失いたくない気持ちやメッセージを伝える、秘密の宝石言葉のようなもの。真面目な事に、絶滅の危機にさらされている動物を守るために『DODO』の売上の一部はイタリアのWWF(世界自然保護基金)に寄付される。 Sea-horse。絵里子の付けているタツノオトシゴのメッセージは、Don't hold back。過去に縛られず、尻込みせずに、前向きに、というような意味が込められている。 「私もDODOシリーズのタツノオトシゴを貰った事があるわ。ちょっとした事があって別れる事になった恋人がくれたの。それから友達みたいになって、毎年誕生日に、ペンダントヘッドを贈ってくれたわ。2つ目はペリカン。3つ目はエンジェルフィシュ。そして今年もらったのが犬」 「でも、あなたは今のイタリア人の恋人と結婚しちゃったというわけね」 絵里子が結論を言った時、担当のエステティシャンがCDを持って戻ってきて、セットするとすぐに出ていった。彼女の背中のツボを移動させ、身体を水に揺らし続けながら、彼女の言葉を待った。 アカペラのコーラスに続きピアノの弾き語り、そしてフレディ・マーキュリーの声が激しいスコールの音とWATSUの揺れる水音をバックに、美しく流れた。しばらく絵里子と彼女は黙った。『Bohemian Rhapsody』が、ラベンダーの薫りの見えない糸に編み込まれていくように、部屋を心地よく満たした。 6分後。曲が終わる頃、スコールが通り過ぎていた。絵里子は、一旦WATSUを中断し、バスタブから出ると、窓を開けた。彼女も水平線の見える窓に来て、囁いた。 「結婚した男とタツノオトシゴをくれた別れた恋人は、同じ人」 絵里子は目の前で微笑し、ピースサインを作っている彼女と目を合わせた。絵里子も微笑し、その微笑は大きくふくらみ、ふたりは声をたてて笑った。ラベンダーの薫りが水平線に逃げていき、代わりに海を渡る新鮮な風の匂いが入り込んだ。風は、アロマポットのキャンドルの火を、大きく揺らした。絵里子の胸元でタツノオトシゴも、激しく揺れていた。 ※『DODO』のメッセージ54の動物の一部:ペリカン(with you I don't miss a thing)/エンジェルフィッシュ(I work miracle)/犬(I am always at your side) |
||||||||
| |||||||||