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#11/EVERY BREATH YOU TAKE
 


  
そのモルジブのリゾートは、2つの小さな島からできていた。インド洋に太陽が沈む頃、オレンジ色の水平線が天上の群青と溶け合いながら、夜の静寂を整える。最終便だろうか。飛行機の点滅が星の間を縫いながら、夜空にゆっくりと吸い込まれていった。 

  「帰ろうかな」

島と島をつなぐ桟橋を歩きながら、絵里子は空一面にまき散らされた無数の星の屋根を見上げ、独り言を言った自分に驚いた。

  帰る?
  どこに?

足元に広がる海に、ため息を投げながら、東の空に顔を向けた。桟橋の手摺すりに背中をあずけると、潮騒の音が急に大きくなったような気がした。

絵里子はこのリゾートで、半年前から海に浮かぶエステティック・コテージを任されていた。揺れる海面の上で、絵里子の影が踊る。星が怖いくらいの勢いで降り注いでいる。
音のない大歓声。そんなまたたき方で星が絵里子を包む。

  「そんなに強くなんかないよ」

絵里子は潮風に揺れる胸のペンダントを握った。山室優介にもらったものだった。イタリアの老舗宝石店ポメラートのカジュアルなジュエリーで、失いたくない気持ちやメッセージを伝える、秘密の宝石言葉のようなもの。

絵里子の付けているタツノオトシゴのメッセージは、Don’t hold back。 過去に縛られず、尻込みせずに、前向きに、というような意味が込められている。

  「そんなに強くなんかないよ」。

絵里子はまた、桟橋を歩きだした。スタッフ用のコテージの部屋に帰ると、絵里子は服を脱ぎシャワールームに入った。

熱いお湯に身体の隅々を叩かせながら、絵里子は泣いた。泣きながら、過去を辿る絵里子の胸でタツノオトシゴのペンダントが揺れた。

5年ぶりに泣いた。5年前に彼との結婚をやめた日の夜に、ひとりでバスタブの中で声をあげて泣いて以来だった。振られたわけでもなく、何か障害があったわけでもない。ただ、結婚というカタチが違うと思った。そばにいなくても、距離が遠くても、大切な気持ちは変わることがないと強く思えた。その日を境に、絵里子は泣かなくなった。そして、句読点を付けた恋人として絵里子と優介は、東京と福岡というそれぞれの場所で生きてきたはずだ。半年前、その距離を少し大きくして絵里子は、このモルジブに来た。

大きなため息をついて絵里子はシャワー・ルームを出た。タオルで身体を包むと、ベッドサイドの抽出しから、ブルーの小さな瓶を取り出し、キャップを外した。ニールズヤード・レメディーズのオーガニック・エッセンシャル・オイルだ。数滴を枕に垂らした後、絵里子は海に突き出た小さなテラスに出た。降り注ぐ星々を見ながら深呼吸すると海を渡る風が、ラベンダーの薫りに変わった。優しさが絵里子の胸の奥を刺した。

時差-4時間。福岡空港から羽田空港に着いた優介は、タクシーで絵里子から借りているマンションに向かっていた。西の空を見ながら、優介は夕焼けの茜色に目を細めていた。タクシーの中から見える空は、飛行機の中から見ていた夕日よりも、少しくすんでいる。東京の空がとても低く小さく感じた。

携帯電話が鳴った。小さな液晶画面を確認して、優介は軽く腹に気を入れた。明日の打ち合わせの件。電話が終わると、仕事の声を出していた自分の声が耳の奥に残った。
「運転手さん。ちょっと行く先を変えてもいいですか。麻布十番じゃなく、富ケ谷に行ってください、渋谷の」
山手通り添いでタクシーを降りると、『RECOVER』というサインの灯るバーに入った。絵里子がお気に入りのバーだ。優介はいつものようにカウンターの左端に座り、こんばんは、とバーテンに挨拶した。ボウモアの12年を棚から取り出そうとした。

「今日は違うのにしたい気分。なんか、ガツンとくるやつない?
「アイレイのモルト・ウイスキーでいいですか」
「うん」
「ラガヴリンの16年は、どうですか」
「ガツンとくる?」
「典型的なアイレイ島産のモルトの薫りです。一度飲んだら忘れない味ですよ」
「そういうのに弱い」

バーテンは氷を器用に丸く削り、ロックグラスにそれを落とすと、ラガヴリンを静かに注いだ。グラスを持ち上げると溶けた氷の漣がスコッチの琥珀を漂っていた。強いアロマが優介の鼻腔を刺した。口に含むと強烈な重量のあるモルトの薫りが一気に口中に広がる。舌の奥に微かな甘味を残して身体の中心を琥珀が通っていく。このほんの数秒が、時間を意識させる。時間は流れてゆくものだと、優介に教えてくれる。

「しかし、うまそうに飲みますよね。何かいい事でもありました?」
「そう見える?ここんとこ、いい事は格別ないけどね」

優介はこの一杯で、バーを引き上げた。タクシーをつかまえ、絵里子のマンションに向かった。11階の、その部屋に着き、優介は絵里子を強く想った。逢えない時間が愛を育てるなんて言葉が浮かんだ。昔の歌謡曲の一節だ。育てたりしない。止まったままの時間が、ただ濃くなるだけだ。それを熟成と呼ぶんだと、さっきのスコッチが胸の奥から吐息となって出てきた。

音楽が必要だ。優介は絵里子のCDケースの中から一番奥の一枚を取り出した。ポリスの「シンクロニシティ」というアルバムだった。CDをかけ、ベッドに横になりながら絵里子を想った。
電話が鳴った。何気なく受話器を上げると、半年ぶりの声が耳に飛び込んできた。
「こんばんは。元気?」
「絵里子・・・」
優介は名前を呼びながら自分の胸の中に温かい漣が広がっていくのがわかった。
「・・・帰ってもいいかな、わたし」
優介はスティングが『Every breath you take』と歌いだすのを聞きながら、絵里子のとまどいながらの言葉を聞いていた。疲れたとかそういうのじゃなくて、と絵里子がしゃべり続けた。話をひととおり聞き終えて、優介は絵里子に言葉を送った。

「帰って来いよ」

君の胸の中に僕が帰る。僕の胸の中に君が帰る。そういう帰り方がいい、と言った。

※「シンクロニシティ」とは、ユングの言うところの共時性という心理学用語。「意味のある偶然の一致」を意味している。


次回をお楽しみに・・・

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