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梅雨明けの軽い風がブリティッシュ・グリーンの国産ライトウェイト・スポーツカーのボディを滑り、フロントグラスを駆け抜け、湾岸道路の景色とともに後方に飛ばされてゆく。風の中に溶けた太陽の粒が新しい季節の到来を告げていた。
幌を上げた2人乗りの助手席のシートには、カサブランカの花束。透明なラッピング・シートが、車内に巻き込まれた風に絶え間なく揺れる。揺れるたびに午後の陽射しを小さな子供の笑顔のような眩しさで弾く。
山室優介はサングラスの左端に、その川面の煌めきのような光を感じながら、ステアリングを握っていた。
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「いつ帰ってくる?」
「できるだけ早く」
「夏が始まる前に?」
モルディブにいる片岡絵里子と交した1ヶ月ほど前の会話だ。
「迎えに行くよ。今は東京の仕事が多くて、絵里子の部屋に住んでる状態だから、移動の足に中古のユーノス・ロードスターを買った。それで迎えに行く」
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今日が、その日だった。首都高速湾岸線から東関東自動車道を快適に走った。最後の料金所で優介の携帯電話が鳴った。絵里子は今、成田空港のロビーに着いたという。
「今、成田インターチェンジの料金所だから、すぐ行けるよ。リムジンの予約カウンターの隣にあるコーヒー・スタンドで待っててくれ」
優介は料金所を出て、検問所までの約4kmをきっかり3分で走り、ターミナルビルの駐車場にクルマを入れた。エンジンを切り、助手席のカサブランカに一瞬目を落としたが、そのままロビーに向かって歩いた。ロビーを入った右隅。優介はトランクの引き手を握る女性の後ろ姿にゆっくり近づいた。数歩手前で、優介は立ち止まった。絵里子だ。優介は、その後ろ姿を見ながら、深呼吸をした。
何か言葉を。
しかし、何も浮かばないまま数秒が過ぎる。気配というのだろう。空気の動きが変わる。女性は振り返った。一瞬、時間が止まる。表情が優しく崩れて笑顔に変わる。優介はポケットからデジカメを取り出した。絵里子の笑顔が帰国の挨拶代わりになり、デジカメの中に永遠に封じ込められた。
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夕日に向かうカタチでユーノスは都内へ向かった。絵里子は目を閉じて助手席で目を閉じていた。少しきつく閉じた瞳は、夕日の眩しさを楽しむようにも、泣くのを我慢しているようにも見えた。
「何か食べたいものはある?」
「お寿司。でも、その前にシャワー浴びたい」
絵里子は眩しそうに目を細めて言った。カサブランカのラッピング・シートが絵里子の膝の上で笑うように音を立てた。そしてまた、絵里子は瞼を閉じて空に顔を向け、風の匂いを探すようにゆっくりと呼吸した。そしてその呼吸はすぐに寝息に変わった。
クルマは東関東自動車道から首都高へ入り、辰巳インターから江戸橋、一の橋、谷町を抜け、渋谷で首都高速を降りた。
マンションの11階。部屋に入ると、絵里子は腕を優介の肩越しに伸ばして背伸びをしながら静かに抱きついた。
「ただいま」
優介の耳元に言う。優介は絵里子の背中に両手を回し、少し細くなった身体を包んだ。微かなブルガリの香りが優介の記憶をくすぐる。ふたりは腕をほどきながら唇を探し、重ねた。
1時間後。優介はバスルームに絵里子を見送り、『RECOVER』に電話をかけた。開店前の少しの時間を貸し切りにして欲しいと頼んだ。絵里子が帰国した旨を告げ、寿司を食べてから行くからと伝えた。
「出前で良かったらおいしい寿司屋があるんですよ。用意しておきましょうか」
主人のリカさんは、その代わり早く来てくださいね、と言って電話を切った。
優介はCDをセットした。エリック・クラプトンのアルバム「スローハンド」。77年の作品だ。しばらくすると絵里子はアルマーニのパンツスーツに着替えていた。『アンプラグド』以降のバージョンの方が好きだな、と言いながら英語で優介に聞いた。
「Do I look alright ?」
おどけた仕草の絵里子に、優介は微笑みながら精一杯声を低くして言った。
「Yes, you look wonderful tonight」
『スローハンド』2曲目の歌詞そのままに優介は応えた。
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クラプトンと親友だったジョージ・ハリソン。その親友の妻パティ・ボイドを愛してしまったクラプトン。『いとしのレイラ』はその心情を描いた名曲で次第にパティはクラプトンに惹かれていく。77年には別居状態にあったジョージと離婚。79年にはクラプトンと結婚。『ワンダフル・トゥナイト』はパティと絶頂期にあった頃に生まれた名曲だ。その後、パティとの仲は曖昧なものとなり他の女性との間に息子が生まれるが、4歳半になった91年に転落事故で亡くしてしまう。失意のクラプトンをジョージが誘い、91年日本でのジョイント・ツアーが実現。ふたりの男の友情は深まり、クラプトンは再起を果たし、亡き息子を想った名曲『ティアーズ・イン・ヘヴン』が完成する。
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1時間後、絵里子は『RECOVER』で寿司を食べ終えていた。店の看板に灯を入れた後、店内に『ワンダフル・トゥナイト』のアコースティック・バージョンが流れた。
「ありがとう」
絵里子の言葉にリカさんは笑顔で応え、不思議な色のカクテルを差し出した。
「いい香り。何、これ?」
「『リカヴァリー・ショット』。ウチのオリジナルです」
「ゴルフなら、ピンチをチャンスに変える一発ってヤツだね」
優介が、幸せそうにカクテルを飲む絵里子に言った。『バラードなら、ドラッグやアルコールや愛や死に打ちのめされても復活してくるクラプトンみたいな』、と付け加えようとしてやめた。その代わりに、
「笑顔なら、こんな一発かな」
そう言って、成田での絵里子を撮ったワンショットをリカさんにも見せた。彼女は何も言わずに微笑むと、カウンターの奥の部屋に消えた。絵里子は優介を見つめながら、言葉の代わりに静かに頷いた。
誰もが胸の中に空を持っている。時折、目に見えない幾千の傷や涙やため息や汚れに、滲んだりもする。しかし、そこに吹く新しい風の匂いはきっと、いつもこんな笑顔に似ているはずだ。
※『リカヴァリー・ショット』・・・シェリー+カシスリキュール+グレープフルーツジュース+サンブッカリキュール(にわとこの薬草)
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